川村記念美術館での企画展覧会
「スサノヲの到来」
を観て来た。
スサノヲという特異なテーマを軸に
縄文土器から始まって、神像、平田篤胤 南方熊楠 ときて明治から現代の作家の作品へという
壮大なレイヤーで見せる、実に見ごたえ食いごたえのある展覧会だった。
殊に現代作家の絵画、彫刻に関してはある意味衝撃を受けた。
表現の重厚さがずしんと胸を打つ。
観て良かったと思う。
「癒し」でない、「ユル」くない、「身の丈」ではない、「自然体」とはかけ離れている、
「暮らし」はない、「楽」ではない、「〜アート」とは呼びたくない。
そして「病」んでもいない。
時代の流行からは遠く距離を保ちつつ、まっすぐに澄んでいる。
よくぞこんな渋いラインナップを編纂できたものだ、
とそのキュレーション能力にも舌を巻いた。
そう、僕は、10代20代と、(失礼ながら)こういう流行から外れた芸術にあこがれた。
今回のどの作家も僕よりは年上の方々ばかり。
大正 昭和 平成の芸術。
高度経済成長からバブルにかけて、日本がいろいろな意味で元気だったころ、
社会で、芸術を叫ぶことが許された時代を芸術家として駆け抜け
今に至る表現者たちだ。
しかし一方、気になったのは、このラインナップに、
今の40代 30代の若い作家の作品が
加わっていないことだ。
最近の美術出版社の倒産、小中高、教育の現場での美術 音楽の授業時間の削減。
これからますます芸術の担い手の居なくなる社会の中で、
純粋芸術の世界はますます曖昧模糊として
ポジションを急激に失いつつある現実は否めない。
*
先日ある陶芸家がトークショーの席上にて、
アートと工芸の違い?そんなものは無い!
と力強く発言するのを耳にした。
その差異分別は視点の位置によって分かれるところだが、
今回の展覧会を目の当たりにするにつけ、
上位 下位を言うのではなく、
器と彫刻はやっぱり別のものでしょう。
と単純に僕は思う。
絵画、彫刻を大芸術、工藝や装飾美術等を小芸術、建築はその総合的なもの、
そういう分別の仕方は欧米では根強い。
大芸術 小芸術というのは、19世紀末、
生活と芸術を一致させようとした、アーツアンドクラフツ運動の牽引者
ウィリアム・モリスが頻繁に用いた言葉だ。
日本においては、
日本は小芸術の国である。
という考え方は未だ根強い。
陶芸では食えても、絵描きでは食えない、
とはよく聞く言葉だ。
明治に至るまで大芸術という概念は日本にはなかったといってもよい。
近代化に伴い大量に輸入された大芸術の概念は、現代まで150年にわたって
日本という環境の異なる土地で、在来種との混交を繰り返しながら
数えきれない人たちの手で育てられ守られてきた。
いい時代もあった。
しかし、
それが今、枯れかけている。
結局それは根づかなかったのだ、と
言い捨てるのは容易だが、
認めてしまうのはシャクだし、
なにより途轍もなく寂しい。
*
選別の時代、といわれる。
パラダイム・シフトは今、
迫られている。
しかし、今、それを望むことは難しい。社会にも国にも。
一個人にはもとより、いくら寄り集まっても
そもそもヒトの力では無理なのかもしれない。
スサノヲは破壊と創造の神としては、
日本の神話の中で最たるものである。
緩やかな沈降も穏やかな時代の黄昏も、
少なくとも彼は望むまい。
スサノヲの到来は人には理解のできない「神の道徳」
によってなされる。
本当の期待、というのは、
自分に成す術が尽きた者だけに
使う事を許された言い訳だが、
「到来」への期待にすがるところまで
僕らはすでに至ってはいまいか?
展覧会の感動の向こうにふとそんなことを垣間見た日。
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