先般、ある映画を見た。
「大いなる沈黙へ」
フランスのアルプスの山中にある、グラン・シャルトルーズという
修道院を半年にわたって撮り続けたドキュメント。
BGM無し、ナレーション無し、照明装置無し。インタビューはたったワンシーンのみ。
それが延々と3時間。
おおよその予想通り場内にはいびきが秋の虫のよう(笑)
が、これは一見に値する。
と僕は思った。
ほとんど中世のままと言っていいほどの戒律的で
単調(に見える)な繰り返しの毎日。
彼らは個室で祈り、聖書を読み解き、日課のミサに参列する。
誰かが答えを説くことも無ければ、
誰かに教えを広めることも無い。
彼らはただ祈り、暮らす、その事でのみ神に近づこうとする。
食事は個室の小窓からそっと提供され、頃合いにそれぞれが摂る。
週に一度の会食でさえ会話は許されない。
集団生活を営み、一日の共通の日課はあれど、
徹底して守られたプラィヴェートのなかで
彼らはただ祈る。
下界との接触はほぼない。
月に一度家族に会える、しかし例えば用事で
麓の村に降りることはあっても村人との会話などは禁じられている。
そして、幾人かはここでその一生を終える。
盲目の年老いたある修道士は言う。
「私は盲いたことを神に感謝しています。ここでの毎日にこそ歓びがあります」
うろ覚えだけどそんなことを語っていた。
隔絶 別世界
それがこの映画全体を貫く印象だ。
観客のほとんどは自分も含め、紛れもなく下界の住人だ。
経済と結果とスマートフォンにどっぷりとつかった俗世の人々だ。
下界の我々は最初、
その作り物めいた天上の隔絶世界の映像に驚く。
それは奇異なるものを、外側から観察する
博物学的な視点だ。
自分たちこそが常識である、
という圧倒的マジョリティの視点だ。
しかし、スクリーンの中で
ひたすら繰り返される彼らの沈黙の日常に見入るうち
知らぬ間に、その視点は修道士たちのそれへとすり替わってゆく。
鐘が鳴ったら
ああ、ミサだ、行かなくちゃ。
と思い、本を閉じようとするし、
質素な食事をかみしめているうち
ありがたいなあ、
と思うようになる。
不思議なことにあれほどの隔たりは
いつの間にか薄れ、
全ての行為が無駄のない当たり前の、人の暮らしなのだ、
と思えるようになる。
祈り、が特別なことではないような気がしてくる。
なんだか術にでもかけられたように、この沈黙の天上世界に僕らは酔う。
そしてここもやはり
我々と、下界と地続きの今≠ネのだ。
と感じるシーンに安堵するようになり、
その安堵に懐かしさすら感じるようになる。
映像の中にはところどころ
そのことをにおわせる要素が最低限に盛り込まれている。
それは、差しれられるオレンジに残る生産者シールだったり、
剃髪していない理髪師の一人が映ると、ああ、この人は通いの職人さんかな
と思えたりする。
腰の曲がった鼻の赤い、老修道士が残雪をスコップでゆっくりと
掬い覗き、黒い土にニンジンの種をまく、
その種の袋はフランスのスーパーで見覚えのあるパッケージだ。
ああ、そういうところは僕らと同じじゃないか。
これは共感、だろうか?
ほっと気持ちが緩む。
そのとたん、
無言の声が重厚な風の音のように響く。
「そんなことはどうでもいい。そういうことではないのだ」
と、突き放され、また下界の観客に戻る。
その繰り返しなのだ。
印象に残るシーンがある。
カメラが空を振り仰ぐと、
山岳に垂れこめた雨雲の下を
旅客機の淡く黒い影がよぎってゆく。
しばらくカメラはそれを追う。
音はただ風の音だけ。
なんだろう?なんで突然飛行機?
そのシーンの前後には何のつながりもない。
それでもしばらくして、
気が付いた。
ああ、あれは十字架に似ているんだな、と。
うがった見方をすれば、
あれは分かりやすい対比だったのかもしれない。
山岳の雪の地べたを這いずり、
それぞれの内的世界にある頂を
小石を一つずつ手で詰んでゆくように
ただ祈ることのみにて
高みへと、天へと達しようとする修道士たち。
対して巨大なジェットエンジンで
軽々と地面を天へと押し上げ、
空を駆けてゆく、下界の人々。
それは観客である僕らだ。
なんという両者の手法の、根本的隔たり。
しかしながら、
それでも世界は地続きなのだ。
その隔たりをどう思えというのか?
やはり、この映画の作り手も登場する修道士たちも
安易な共感など僕らに求めている訳ではなさそうだ。
いうまでもなく、
すべてのシーンの映像の美しさは筆舌に尽くしがたい。
冷たい漆喰の壁に小さな窓から差す光に浸るだけでも
十分見ごたえはある。
いい映画だったなあ、感想なんて
その程度でもよかったのかもしれない。
観終わった後、それでも彼らの修行の意味も
作り手の意図も
僕はそれなりに雰囲気でわかったような気になっていた。
そんなふうに夢見心地で有楽町の小さな映画館からエレベーターを降り
ガラスの自動ドアが開いたとたん、
津波のように全身に襲いかかる、音、音、音。
爆音には紛れもない実態と圧力があった。
本当に目眩がした。
修道士たちの踏む樫の床板の反発音、ローブの絹ずれの音だけが
あの世界で、沈黙を破るものは、ただそんなものだけだった。
ここに来て絶望的な本物の隔絶を僕は思い知らされた。
数日たって、
言葉としてまとめられないものがずしりと
のしかかる。
あくまで自分にとって、
それはものすごく大きく、大事な意味≠ナあることは分かる。
しかし切りこもうとすると、その内側へ入り込む扉がわからない。
どう解釈しようとしても、十分ではない。
だから未だに、こんな風に書けば書くほど自分の言葉の
陳腐さが際立つ、
いたずらに深読みすれば、またその行為を笑う声がする。
自分の、造る日常≠ニどうにか重ねてみる。
かすかにそれと沿いうるような
輪郭や意味ありげな言葉が浮かぶたび、
もう少しで分かりかける気がするたび
またあの声がするのだ、
「そうではない、そういうことではないのだ」
と。
一体、僕は何に捕まってしまったのだろうかと、
勘ぐりをして、また笑われる。
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