五輪後。
「ゴリンゴ」得体のしれない巨人の名前みたいだ。
開催中に書けばいいものを、ついつい見とれて過ぎてしまった。
でも、五輪中、だと、しめやかにおごそかに何かが執り行われそうになってしまうから、
ゴリンゴでいい。
今回のロンドン五輪、
日本は頑張った。何十年ぶりのベスト4進出。何十年ぶりのメダル。
史上初のメダル。
勝って当たり前の注目種目以外にも、快挙、あっぱれ、大金星の連発だった。
大健闘の選手たちはインタビューで答える。
「ここまでこれたことに感謝します。」
「応援してくださった方々、本当にありがとうございます。」
興奮の頂点にあってなお、アスリートたちの言葉はきわめて謙虚だ。
ウサイン・ボルト選手のように、
「俺はやったぜ、俺が伝説を作ったぜ。」
的なトーンの第一声は、日本人アスリートの口からは聞かれない。
もっともこれは民族性の相違というやつなのだろう。
アスリートと応援する人々の間には、互いに
強い熱狂と静かで重い感謝の気持ちの交換が確かにあった。
我が国では
神の霊威が陰るとき、気が枯れる、すなわちケガレの時、
神官は、祝詞をあげながら榊や幣をゆらゆらと振るう。
あれは、魂振り、という。
すなわち、それは魂の発動機であり、振ることは生命力回復の呪礼なのだ。
その後、元気になった神様とともに食事をする。
力を分け合うのだ。これを供食という。
そしてまた神様には次の出番まで速やかに天に帰っていただく。
これがマツリだ。
先日の銀座の凱旋パレード。
ほとんどのメダリストたちを乗せた、ハイデッカーバスがゆっくりと
銀座の大通りを進む。
それを取り囲む人々の熱狂の波はなんと50万人に上ったという。
人々はいう。
「感動をありがとう。」
選手達はいう
「逆に皆さんに元気をもらった。」
華やかな山車の上で、アスリートたちは神格化されてゆく。
また、この神様いろいろ盛りだくさんな感じが日本人は大好きだ。
神様は丸いメダルを齧るまねをする。
人々は思い思いに力いっぱい旗を振る。
マツリの中で、魂は互いに振るわれ、エネルギーの交換がなされ、
生命の威力はよみがえる。
50万人以外の人々は、画面からその様子を見、それに準ずる。
誰に正式に習ったわけでもないのに、
日本人はそういうマツリゴトの大事さを身にしみて知っている。
そしてそのチャンスを逃さない。
ハレ、ケ、ケガレ。
ケは何もない日常。ハレは婚礼や祭礼などの非日常。
そしてケガレは災厄や死といった非日常
と仮に仮定する。
団結、絆(気綱)、復興。回復。何もない日常(ケ)において、
こう言った言葉は、どこか空々しい。
また空々しく感じることが、ケと判ずる根拠でもあるし、それでいい。
けれど、こういった言葉は、まさに、
ケガレからケに転嫁する時
また、転嫁を人々が強く望むとき、
初めて強烈な意味を持つ。
オンとオフの兼ね備えが、
日本の「言霊」という概念を特徴づけている。
ケガレを払い、心身ともに美しく健やかに。
ハレの場、五輪の盛り上がりに、
日本人の根幹に流れる、こういった世界観の発露を垣間見た思いがした。
これは民族の精神性の健全な発露のあり方だと思う。
あの災厄と事故以来、過去類を見ない巨大なケガレの時期を
今なお強いられている日本。
その中においてなお、いやむしろそんな中においてこそ、
清く、正しく、美しくあろうとする民族の心身のあり方の根幹を
隣国諸国が、正しく理解することは
おそらく困難なことだろう。
必然的にやっかみの気持ちも生じようし、
多少なりとも欧米から自分たちの頭越しに
称賛の声が上がろうものなら、
それは面白くないだろう。
だから、このタイミングで色々とごたごたがあるのは、
ある意味仕方がない、とも思う。
顕在化する環境や価値観は見事なスピードで移り変わってゆくけれど、
そうした、根幹の自己再生能力は、未だ生命力が残っているならば、
形を変え、いつの時代にも必要な時に発動する。
パラリンピックも控えている。
顔晴れ ニッポン。
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