
震度6弱 震度5強。1ヶ月経っても揺れる揺れる。
今日はちょっとましだけど、
一昨日の夕方から昨日は特にひどかった。
もう3分おきくらいににゆさゆさゆらゆら。
これじゃあ船に乗っているのと変わりない。
船と違うのは、この大きな船には船長も操舵士も不在だということだ。
どこに向かっていて、今どこにいて、1分先に船がどうなっているのか誰にも聞けない。
船が何を考えているのか、
どんなつもりなのか、乗船客はまったく知れない。
いや、船には、乗客を乗せているという意識なんてものは多分全くないのだ。
思えば、僕らの古い古い神様観というのは、
意思疎通など全くできない、
この船のように、訳のわからない恐ろしいものでしかなかったのだったのだろう。
神社で願いを聞いて叶えてくれたり、悪いことをすれば罰を与えたり、
祈れば霊験あらたか。
そういう分かりやすいギブアンドテイクみたいな関係の在り方は
伝統でも何でもなくむしろ“今風”なのかもしれない。
まあ得体のしれない恐ろしいもの、と最初から思っていれば、
たまたま、自分たちにとって都合のよい“良きこと”が、
ちょっとでもあった時の感謝の念は大きい。
程よい雨が降っただけでも、それはきっと幸運に感じられるはず。
ラッキー!
オー・マイ・ゴッド!
良きことがずっと続くように、と、
得体の知れぬものに向けてまた祈る、“時々”幸運がある。
この“時々”がみそだ。
必ずいつも幸運があれば
神威はかすむ。
その保証のない因果関係の向こうにのみ、
神様は居た。
見えるような見えないような、、、。
そんな思わせぶりなところもまた
神威を感じるミソだ。
今日は揺れが少ないかな?
となんとなく朝思ったので、
3日後に迫るワークショップに使う、材料をもらいに行ってきた。
知人の所有する雑木林で昨年切られた桜の枝を沢山。
あっちもこっちもひどい傷だらけの古い町なかを抜け、
久しぶりに町外れまで車を走らせる。
タンポポの絨毯。桜も満開。
花はきっちりと時を刻んでいる。
同じ天地の仕業でも、地震と違ってこっちはずいぶんやさしい。
いやいや、そう感じるのも僕らのただの思いこみなのだ。
タンポポもまた人間のことなん決して思わない。
僕らは自然とともに、とか自然と共生なんて言葉をすぐに使ってしまうけれど、
“思う”という概念すらない相手に、
供に、なんて関係ははなから成り立つ訳がない。
要するに片思い、というか勘違い。
でも、
きれいな花を見て、
自然をやさしく身近に感じたりする。
この偉大なる勘違いは
人には大事だ。
相手もきっとどこかで僕らのことをみてくれている。
そんな勘違いを糧としないと
人は絶対に生きていけない。
そうでないと、恐ろしくてきっと人は死んでしまう。
飢えや暴力以外にも、
想像力の異常過多や逆に欠乏から来る虚無は人を殺す。
つくづく不合理で不安定で奇妙な生物だ。
たまたま東京のとある場所にその時にだけ集う。
たまたま一緒に桜の木を彫る。
1日、手を痛めながらも頑張って向き合ってみる。
それで、帰りの電車がたまたまタイミングよくホームに入ってきたら、
オー・マイ・ゴッド!(笑)
そう感じられるといいなあ。
午後はぼんやりそんなことを考えながら、
木偶のスタンドを鉄でこしらえた。
50個ちょっと。今回多いな!
久しぶりにお会いする面々。初めての顔。
楽しみ楽しみ。
たまたま、たまたま。
だけどそれは幸運。
大きな揺れがないといいけど。
いや、揺れるような揺れないような、、。
がミソか?(笑)
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