























フェイルションシュタット、無事終了いたしました。
御蔭さまで沢山の方々に訪れていただきありがとうございました。
DEE'S HALLでの像刻展、いつの間にか今回で7回目を迎え、
年数にして10年を越えることができたのですが、
回を追うごとに僕自身、いろいろな意味で偽物だなあという思いが募ってきていました。
それが気楽さでもありまた一方で、大きな不安ともなって積もって来たのです。
積み上げて来た足もとの脆弱さを見過ごせなくなっていました。
とはいえ、それならどうやったら本物という実感が得られるわけ?
というのが最大の壁でした。
今回はその壁にに向き合ってみよう。2015年初め、そんな1年をスタートさせました。
それにはまず発想の転換が必要でした。
つまり、本物になろうとするのではなく、偽物であることを肯定してみよう。
と厚かましい開き直りから始めたわけです。
偽物のなにがいけない?偽物であることとはどういうことなのか?
そんなことを毎日のように考えながら、制作は進み、年の半ば5月に長い旅行に出ました。
南ドイツから始まり、パリ、ピレネー、バルセロナまで。
本物、とされている先人の名作を正面から見て、腹に落とし込みそれに挑んで、そして
大敗を喫しよう。
こてんぱんに負けに行くための旅です。
負けるという事実を得たかったのです。
先に進むためには、必ず上手に負ける必要があります。
博物館や教会や修道院の古い木の像を穴のあくほど観てスケッチして回りました。
結果、こりゃとてもかなわん。どうやったらこんなことが出来るの?
と、時を経てなお鬼気迫る
マイスター達の気迫に僕は予定通りぺしゃんこになりました。
しかし、そのままでは仕方がありません。
どうにかあそこまで、とまではいかなくともそれを目指して登坂を開始しないとなにも始まりません。
帰国後、取り組んだのは複製です。顔より唐草や髪の毛から彫り始めました。
正直、オリジナリティや自分らしさみたいなものは、
今回は少々どこかに置き去りにしてきたところもあります。
それまで自分の表現だと、かたくなに信じてささやかに積んできたものが、
どうしようもなく薄っぺらに思えたのですから、これは致し方ありません。
500年以上も前の親方に鼻であしらわれて、
このくらいできるようになってから出直してこい、
腕もなく素材も道具も知らずなにが表現だ、なにがアートだ!なにが現代的解釈だ。
と一喝された(気がした)のです。
まったく小僧っ子の気分です。
無知は知り理解するしかありません。出来ないものは練習するしかありません。
例えばこれまで二日で形にはなっていた分量の作業に7日間かけるようにしました。
技の底上げが足もとを幾分かは強固なものにしてくれるに違いない。
それは偽物の意地のようなものでした。
日本人的な職人の魂がうずいたのかもしれません。
ぺしゃんこになったとはいえ、出来ることを増やす、上手くなる、という
分かりやすい動機を得た制作はしかし一方でやりがいもあり、初心に帰ったようで
とても楽しいものでした。
ただ負けるのと上手に負ける事の違いはつまり、開き直ることができ、
なおかつそのどうしようもない微力感が
エネルギーに転換可能な種と成りうるか否か、ということかも知れません。
しかしこれは典型的な独りよがり的潜伏期間でもあります。
練習にいくら時間を費やしたところで結果が伴わなければ
意味がない。
作家は求道者でありさえすれば良い、とは僕は思いません。
他者の気持ちを意識を、望む場所まで引き連れて、引き込めなければなりません。
個展というのは観てくれる人、購入してくれる人がいて成り立つものです。
芸術の価値とは作品の出来不出来ではありませんし、上手下手で決まるものでもありません。
また作家の自己満足の度合いで成り立つようなものでも到底ありません。
芸術とは作家と他者が出会う、渚のように不安定で
あいまいな境界線で起こる現象の異称に過ぎません。
そういう意味では常に相手を自分の意識のなかで生き生きと住まわせ、
決して置き去りにしないことがことのほか大切です。
お互いが望む(であろう)場所、境界線の発見や設定が個展という期間限定のハレの場です。
振り返ってみれば今回はそんな望む場所、
待ち合わせ場所であるフェイルションシュタットの街。
そこでのランデブーが見事叶ったのかどうか・・・。
フェイルションシュタット「うそぶく街」12月15日開門。
僕の中では観に来て下さった方々は、
旅をする人、訪問者、一瞬通り過ぎる者、という設定でした。
僕は1年かけて街の住人たちと開門の準備をしてきました。
街を作る住人のように振る舞い、住人であると錯覚することで過ごしてきました。
僕は住人の擬態をしてきたのです。
そして開門から僅か1週間。街に沢山の人達がやってきました。
その間僕は住民でも訪問者でもどちらでもない中立の立場で街を見て回りました
毎日。そして、
冬至の22日にフェイルションシュタットという小さな町の城門は閉門しました。
その日、僕もまたその外側へ退去しなければなりません。
僕もまたあっけなくまれびとに戻ったわけです。
城壁の中ではかつてもこれからも、沢山の街の人々の人生が始まり終わりまた
続くのかもしれませんし、もしかしたら閉門と同時にそれこそ蜃気楼のように、
塀の向こうには今はもう何もないただの空っぽの土地だけが広がっているのかもしれません。
城門の外からはうかがい知れないのです。
きっとまだ変わらず彼らはそこに生きていて、街もそこにあるんだろう。あってほしい。
僕にもそうささやかに望むことだけしかできませんが、
望む、という事は大切な事かも知れません。
その望む、という心の働きをいくばくかの方々と共有出来たとしたら、
それは作家冥利に尽きるというものです。
が、まあそこもまた確かめられることではありません。
野暮というものですし。
野暮と言えば、
問い詰め、決着を回避することの方が良いことも世の中には沢山あります。
例えば
本当と嘘、例えば本物と偽物。
思うにそれは、対立するものでなく、丁度一枚のカードのようなものです。
どちらかだけしか認めない、どちらかが物事の真理だ、と強く言ってしまっては
これはやはり残酷な結末しか想像できません。
カードは容易に裏がえりもすれば重なって層を成し断面をさらすこともあります。
嘘や作り物の存在を許容することで、カードの一面だけしかみられない不安から
人はいくらか解放される様な気がするんです。
ここで肝要となるのは、カードを前にした時、偽物はいつも明快にありありとその面に描かれていますが、
その裏側にはもしかしたらなにも描かれていないかもしれない、ということです。
勢い込んでめくってみれば白紙だった、などという事もあるかもしれません。
本物はあってもなくてもいいんです。
けれど、きっとこんなふうな絵柄なのだろうな、と想像することで、
偽物は生き生きと存在できるんです。偽物は必ず実態を伴います。
逆はありません。
もしかしたら、偽物の裏側に描かれているのは、理想とか希望といった観念なのかもしれません。
観念は実体を伴いませんから。
それがフィクションです。
偽物の存在理由でありカードの存在条件です。
フィクションの役割、偽物の役割。
その役割をたゆまず果たす。
偽物であり続けるために成さねばならない研鑽がある。
常にらしくあれ、であれらしかれ。
そう望めば街はこれからもそこに、うそぶき続けられる。
そんなところがまあ、今回のオチというか、
これからも作家とうそぶき続けるしかない僕の
今回の落とし所であり一里塚だったと、
そういうことなんです。
街の閉門の宵に合わせて奏でられた mama!milkの官能的でどこかさびしげな音色に
僕は、街の人々の日常や人生みたいなものを重ね合わせて浸りました。
鍛冶屋の親方は先月旅立たれたよ。
仕立て屋の娘は間もなく嫁ぐんだそうだ。
教会の屋根の修理に今、人足を募っているよ。
今年の葡萄の出来が驚くほど良かったよ、こんなのは何十年ぶりだ。
市長の家の煙突のコウノトリ。やってくるのが今年は遅いねえ。
虚構の街、すべて作り物のはずなのに、
なんとも名残惜しい思いで僕は胸がいっぱいになってしまいました。
演奏は1時間、インターバルもMCも無しでしたが、
導入部分の滑り出し。
今回初お披露目の旋律だったこと、お気づきになった方いらっしゃいましたか?
フェイルションシュタット。
いくらかの写真と文章のやり取りから
生駒さんがイメージしてこしらえてくださいました。
展覧会会期中、頂いたデモテープ?の最初の鐘の音を聞いたとたん、狭い会場内は一瞬にして
街のお祭り前のさわさわとした、人々の期待に満ちたざわめきに満ち、
うそぶく街の石畳が城壁が、樫の木と石造りの頑丈な家並みがぱあっと広がりました。
音楽ってすごい!で、ちょっとずるい(笑)と思いました。
視覚から入る造形物の何倍ものスピードで心の襞の細かい隙間に滑り込むんですから。
曲自体はまだまだ未完成で、未だ4分の一くらい、と彼女が言っていたので、
きっと完成すればそれは魅力的な長い曲となるのでしょう。
虚構の街の風景を、人々の息遣いをそのままモティーフとして素晴らしい表現者に
そっくり託せた気分で、僕はその音色にこれまでにない深い感銘を受けました。
完成が楽しみでなりません。
少なくとも二人は、“望んで”くれたことになるわけですから。
こんな心強いことはありません。
僕の街づくりのスタートは1年前だったわけですが、
閉門から始まる街造りのフィクションはまたより深い意味があるとおもうんです。
音楽で。
完成の暁には何らかのコラボがまた実現すればいいなあ、と夢見つつ、
僕は僕で、滞在記でも書こうと思います。
次回 DEE’Sはまた1年半後。の予定です。
そして約半年後、夏の少し前あたり、
広島での個展が次の僕の締め切りです。
次はどんな嘘をつこうかな。
2015年残すところあと数日です。
つかの間、やり残したさまざまよしなしごとを片づけながら、新しい年を迎えたいと思います。
2016年は新しいことを何かスタートさせたいものです。
今回訪れてくださった沢山の皆さま、
どうもありがとうございました。感謝いたします。
またいつか、別の待ち合わせ場所でお会いしましょう。
皆さまそれまで息災で、ごきげんよう。