広島から帰って来たのが9日。
その後今日まで2週間とすこし、僕が茨城で何をしていたのかというと、
力を出し切って放心、とかだったらかっこいいんだけど、
実はずっと家の補修作業に没頭していた。
玄関の土間と倉庫ダルダに板床を張り、
材木置き場に雨よけの軒を取り付け、
パソコンのあるスペースに棚を増設してレイアウトを変え、
昨日からは、玄関と千恵の作業場の間に間仕切りの扉を作っている。
ああ、なんて楽しいんだ(笑)
仕事じゃない作業って何故こんなにさくさく進むのだろう。
家をこしらえて14年になる。
計画当初は、あそこをああしよう、こうしよう、
と外国の雑誌なんかを穴のあくほど見続けて、夢想してばかりいた。
住み始めてからもこのまま改装を続けようなんて思っていたけれど、
実際その場所で日常がスタートして暮らしが定着してみると、
そんなことはほとんどやらなくなった。
例えば2階のカーテンが付くまでになんと10年を経過していた。
それまで窓には画鋲で麻布を止めただけ。
それで雑誌の取材なんか受けていたのだから、
笑ってしまうほどお粗末だ。
ただ、住みながら気が付いたところ、気になるところは
いくつもいくつもずっとたまっていった。
明日やろうは馬鹿やろう、とは学生時代の友人の口癖。
よし、広島が終わったらやろう。
年末までの限定の僅かな時間をそこに当てよう
と決めたら再び火が付いた。
毎晩スケッチをして、翌日材料を見つくろって
すぐ作る。
なるべく手元にある材料で低予算で、自分に出来る範囲で。
思い出した。
必要だから作る。
よりよい暮らしの為に、開いた穴を埋める。
創作する、というほど大げさなものじゃなく、
繕うことの充実感。
僕が昔、生活道具を作り始めたのはこういう気持だった。
身のまわりや、人のまわりに足りないものを思いつく端から埋めて行こうと思った。
ところが、
値段をつけて、展覧会の売り上げが生活の糧となり、
だんだんと繕うべき個所が見えなくなって来た時に
純粋な楽しさが薄れてしまった。
最初はあんなに楽しかったのに、
なんだか自分のモチベーションの限界を感じてしまったので
結局生活道具を作るのをやめた。
そう、ほころびを繕う。その気持ちを忘れてはいけない。
像刻の場合もそれは同じ、そこに無いから作る。
自分がまずその姿を見てみたいから作る。
生活道具と違うのは、
そこに、物語や空想といった量として測れない余地が沢山残されているところだ。
彫っても彫っても一つうまくいくと
他に何かが言い足りなくなって、繕いきれないほどまたほころびてゆく。
生活道具は暮らしの物的な穴をモノで埋めるものだったけど、
像刻はモノであるにもかかわらず、その本質は言葉だ。
足りないコトを言葉で繕う。それを丁寧に紡いでゆくこと。
それを人に聞いてほしいと願う。
それは表現の基本といっていい。
繕う必要が無くなってまで手を動かせばまた同じ轍を踏むし、
また繕う必要のないコトをことさらに大声で叫んで
無駄な上塗りをするような激しい自己主張をしようとは僕は思わない。
その個所を丁寧に確かめながらだから、沢山はできない。
理由があるから手を動かす。
物語も空想も伴わない作業は僕にとってただ苦痛だ。
常に、ちょっと足りない、くらいがちょうどいい。
その塩梅をどうやればうまくコントロールできるのか、
コツはあるが、真の秘訣には未だ至らない。
多分、この繕い大工仕事が終わるころにまた、
無性に顔が彫りたくなるのだろう。
どちらの手仕事も地続きなのに、不思議なものだと思う。
旅行と日常の関係に似ているのかもしれない。
さて、世間ではクリスマスやら年越しやら賑わしいが、
うちの年の瀬は、永年積もった繕い仕事で過ぎてゆく。
それが自分らしい。