2014 chichibu
廃屋とか廃墟という言葉がすっかり有名になってしまって、
なんだかスポットの地図やら、リストのようなものまで
ご丁寧にネットに散見出来てしまう時代になった。
興ざめも甚だしい。
優良物件との突然の出会いも、
こっそりひっそり眺めて浸り、そのことを秘する楽しみも
一気に半減してしまった。
こういうのは、誰かと共有して喜ぶ類の愉悦だとは思わない。
にもかかわらずどのサイトも、
堂々とつまびらかにデータを添付して、自らの冒険譚をひけらかす。
その一種の悪びれないほがらかさ≠ェ残念で仕方がない。
それが時代、なのだろう。
僕が学生の時には、やはりそういうのもの好きな輩が身の回りにいて、
情報はまことしやかにひっそり伝えられたものだ。
「あんまり誰にも云っちゃだめだよ」
禁じられた遊び的な、ほの暗くひそやかな楽しみは、
他人の土地に侵入するというイリーガルな罪の意識
がしっかりあったからこそだった。
人の姿や生活がそこからすっぽりと抜け落ちても、
その強烈な残り香や息吹の残滓はそう簡単に消えることがない。
時に洗いだされた生々しさは実にエロティックだ。
その残滓たちは、後の侵入者に対して無関心だ。
それらはただ、そこに残され漂っているだけで、
目的も意思も方向性も持たない。
無論攻撃性などない。
だから、侵入者は鑑賞者の立場を保つことができる。
鑑賞者は時としてそのありさまを美しいと思う。
映画なんかだと、多分、
遊び半分で探検する仲間の一人がメッセージを受け取ってしまうのがお決まりだ。
「ここに立ち入ったものを、呪う」
残されたサインは必ずそう解釈される。
美しいと思う、だけでは物語は始まらない。
もっとも、実際にはそんな事件は何も起こらない。
そのかわり
その過ぎてしまった時間を感じることで、想像力が発揮される瞬間には、
代え難いぞくぞくするような愉悦が潜んでいることも確かだ。
優良物件にはばったりと偶然出会い、
出来れば一人でひっそりと
堪能するのがいい。
そんなことはそうそう無いけど。
おまけ。
写真の廃屋の傍で、実は事件はこっそり起こっている。
右上の3人。
真ん中の人、なんか変だよ。一体どうした。
のんきに手振ってる場合か?
気づけよ両側の二人。