眼鏡を初めて掛けるようになってから3年になる。
とはいえ仕事中は今も掛けない。
近くは比較的まだ見えるので、
手元を見るのは出来るだけ裸眼のままでいたいからだ。
しかし、目は脳の一部だという話も聞く。
ということは眼鏡は脳を助ける道具ということになる。
現状、自分には裸眼が一番、というのももしかしたら、
頑固な思い込みかもしれない。
今の自分の脳にとって本当に良い道具を知らないだけかもしれない。
というわけで今日は朝から
“良い眼鏡”
を求めて、千葉まで出かけてきた。
その、大きくはない眼鏡屋さんの評判は、年末に一緒に山登りをしたサンペイ君
から聞かされた。
彼はいくつもの眼鏡を、脳の求めに応じて付け替える、
いわば眼鏡という道具の達人なのだ、と
今日、その眼鏡屋のご主人から改めて聞いた。
眼鏡屋のご店主は認定眼鏡士の資格を有している。
ちょっと学者然とした雰囲気のこのご店主の言葉づかいは丁寧だ。
マンツーマンの事細かい問診。独自の眼鏡論から
目前の脳の求めるところを探る、独特の質問。
診断が進むうち、
だんだんと、自分の殻が外されてゆくのがわかる。
と同時に自分にだけカスタマイズされた、
道具の青写真が組み上がってゆく。
そして不思議なことにそれが今、自分にとても必要な
大切な道具なのだと、感じられるようになってくる。
いつの間にか、最初に考えていた、
ぼやけた視界がくっきり見えればいい。
そんな程度の意識はなんだか気恥ずかしく思えてきた。
そうか、その程度では、道具を使えている、とさえいわないのか。
そうだ、自分に合った大事な道具というものは、本来、
こうやってその道のプロフェッショナルが
丁寧に仕立て、指南してくれるものなのだ。
医者でも最近ではこうはいかない。
結局じっくり2時間。ここから出来上がりまでさらに10日。
店を出るとき、自分の日常の輪郭がくっきりと洗い出されたみたいで
不思議な気持ちになった。
ところで、認定眼鏡士という資格は
公益社団法人 日本眼鏡技術者協会の定めるマイスターの資格であって、
国家資格ではないらしい。
日本は脳と目の関係の研究において非常に先駆的であるらしい、
にもかかわらず、
世界中でそれが国家資格でないのは、日本と北朝鮮など、ごくわずかしか無いのだそうだ。
驚きだ。大切な職人がわが国では冷遇されている。
現在、国家資格化に向けての活動が盛んなのだそうだ。
身につける道具を作る、という技術は、医術の延長、身外の医術といってもいいように思う。
道具を身につける側からすると、
信頼をどこに求めるかの基準はあってほしい。
確か、僕らが子供のころ、同級生が眼科医の診断書をもって
親と眼鏡屋に行っていた。
それが、いつの間にか、コンタクトも眼鏡も安価になりネットでも
誰でもが気軽に購入できる手軽な商品アイテムとしての顔を持ち始めた。
なるほど、
国家資格という名実ともにプロフェッショナルとして
墨付き看板成立への壁とはつまり
そういった業界の大人の事情のことなのだろう。
確かに、2千円の眼鏡も10万円の眼鏡も、眼鏡は眼鏡だ。
消費者に選択の幅があることはいいことなのかもしれない。
けれど、その幅の中から最適を選びとる。
そのこと自体が今、至難の業と言わざるを得ない。
それとこれとの違いが分からず、
ともすれば選択肢の海で溺れそうになる中
危険や適性を正しく選りわけてくれる専門家の存在は大変ありがたい。
自分と相性の合う良い専門家との出会いはさらに縁としか言いようがない。
今日のようないい出会い方は非常に稀で、
それは幸せなことだ。
僕も達人にはなれなくても、せめてちゃんと道具を“使える”ようにはなりたい。
届くのが楽しみだ。