初めてIKEAという、巨大北欧インテリアショップに行った。
広大な建坪。商品展示の仕方、客の動線、
買い物袋やカートなどの配置、カフェのメニューと値段設定。
どこをとっても、よくまあこれほど合理的に実現できたものだ。
と、とにかく感心しきり。
商品に関しても、
どのデザイナーがこれを考え、拵えたのか、
そういう体温が感じられる品ぞろえ。
で、安い。
ディノスや通販生活には無い洗練されたデザイン性と、
家の中の機能丸々全部、実物を見て選べるというメリット。
コーディネートも頼むことができる。
無印良品には無い、あえて加味され、忍ばせた遊び心。しゃれっ気。
コンランよりは少々質は落ちるが、そのかわり安価。
作品とは違ういわゆる、工業生産品なんだけど、
その範疇ではかゆい所に手が届く
実に上手な狙いうちの仕方だなあと思う。
高機能のまごの手だ。
さて、僕はかつてこれに飲み込まれそうになって、
生活道具を作るのをやめてしまった。
あふれんばかりの工業製品の洪水に立ち向かい、
アンチを明快に打ちだす気持ちが揺らいでしまったのだ。
アイデアだけでも、素材の希少さだけでも、作品性や手作りをアピールしても、
自分自身の明確なポジションが絞り切れなかった。
その時点では。
足りなかったものは、一つには手の技術。
なによりもうひとつは生活道具への理解と情熱。
制作が像刻に移行した今も、興味はある。
大量にモノが生産され、受け入れられ、忘れられてゆく、その仕組みには。
人が何を買い求めて、何を捨てていくのか。
モノに価値がどうやって発生するのか?
IKEAでは我が家で長年保留にしてあった、衣服のチェストを二つ購入。
なんだかんだいいながら、僕自身もこのラインに準じ、
まんまと消費者となっている。
ちなみにこれは、先日、近所のアンティーク倉庫のセールで購入した
ガラクタ達。
どれもこれ単体では、なんの役にも立たない。
が、これもまた同じ工業製品なのだ。
そして、非常に魅力は感じる。
アンティークパーツとしての魅力だ。
役割を失ったからこそむしろ何かにはなりそう、という予感。
時を経てもう生産はされなくなった希少性。
質や錆びたテクスチュアの美しさ。
けれど、これだけではアンチテーゼにはなりえない微弱な存在でしかないのだ、
ということを、僕は思い知った。
リプロダクトは思ったより簡単ではない。
さて、それならこの役立たず達は何なのか?
なんとなくこういうのが好き。
好きなものと暮らしたい。
飾れるオブジェに。
好きじゃなくなったら、手放せばいい。
それでいいじゃないか?
それ以外に何か必要?
と、消費者の立場からはそれでいいのかもしれない、
でもそうはなかなかいかない。
モノツクリは消費者でもあるが生産者なのだ。
その魅力はなぜか?に答えを出さなくては、
その理が立たないのだ。
あるいは、社会に対してこの魅力は何であるか?という提示が出来なくちゃならない。
厄介だ。
さて、
資本の畑から次々生み出される高機能に対して、
個人のレベルでも打ち出すことができる「ウリ」とは
結局のところ何なのだろうか?
繰り返し繰り返し、
今もそれは自分に突きつけられている。