
搬出から4日。
泥のようにへとへとだった体も、ようやくのろのろと動けるまでに。
なんとなく、お参りをせねば、とこれまたのろのろと
一昨日は筑波山神社に、昨日は大洗礒前神社に行ってきた。
大洗のほうはお水取りもかねて。
ことさら強い願いを込めるでもなく、平常心で柏手を打つ。そしてまた一拝。
僕はこの行為がとりあえず好きだ。
背筋を伸ばしたり、心なしか澄んだ自分の気持ちに気づいたり。
柏手の音が二つ、きれいに響いた時にはスカッとする。
逆に一つが不発だったりするとそのあとの一拝は
なんだかすみませんと、頭を下げているような気分になる、ちょっと反省する。
“作法”というのはそれを丁寧に遂行するだけで、気持ちが切り替わるから
それだけで意味が多いにあるものなのだと思う。
それを、形だけで意味がない、と単純に切り捨ててはいけない。
型は以外に大切なのだ
一昨日はいまひとつ。昨日はうまくいった。
改めて見まわしてみると
どちらの神社も灯篭や鳥居が倒れたままで痛々しい。
海に隣接した小高い丘の石段の上からすぐ波がしらが見える。
その石段のすぐふもとまで津波は迫ったのだという。





港は壊滅的な被害だったが、有名な魚市場は今月初めには復活した。
あれから初めて出かけた昨日の海は荒れていた。
台風が接近しているのだ。
骨休め、という言葉はあるが肉休めとか脳休めとかいう言葉はない。
骨さえ大丈夫なら、あとは割と酷使しても、痛めつけても
体というのは案外頑丈にできているのかもしれない。
旺盛な回復力や再生力を我が国では常に尊ぶ。
それこそが生命力の表れだからだ。
もう少ししたら、ずっと行きたかった宮城の塩竃神社にも行きたい。
塩づくりの神様、シオツチノカミが祭神だ。
塩が気になる。
さて、その骨休めの延長で、
明日、成田を出発。帰国は16日。
メール、電話その他はそれまで受けられませんので、
仕事御連絡等はそれ以降でお願いします。
また、多忙な骨痛めの日々が始まるので、
その前にリセット。うちは二人でしばし逃亡します。
しかし今日も良く降るなぁ。