野外彫刻展が開かれている。
確か2年に一度の開催だったように思う。
数年前の磁場展には僕も一度だけ出品させていただいたことがある。
つくばの町からはずいぶん奥まった北条というところ
がその会場のひとつだ。
広々とした芝生の丘にどかん、とおかれた鉄の塊。
そのそっけないまでの作品が僕はとても気にいった。
こういう場所があるのは本当にいい、
と思う。
作品のレベルも高い。
ただ、当り前のことなんだけど。
会期が終わればこれらはなくなってしまう。
さらに残念に思うのは。
僕が見に行った日もこの場を訪れている人は
お世辞にも多いとは言えず。
会期中、この不便なところに
どれほどの人が足を運ぶんだろう。
ふとそう思った。
作品の制作も、展示作業も、とにかくこの場を拵えるまでのエネルギーはなみなみならないものがある。
しかし、にもかかわらず、残念ながら、
訪れる人は実はすごく少ないんじゃないだろうか?
芸術家というのは、
他の反応が極端に薄くても
それで何か充足を得られるものだろうか。
エネルギーというのは発信するばかりでは尽きてしまうもので、
継続するためには必ず熱交換が行われていてしかりである。
いやいや、申し訳ない。
もしかしたら、何か反響はすでにあるのかもしれないし
これはたまたま僕が行った時の印象なのかもしれない。
まるで人ごとのようだが、
僕自身はいつもその部分を越えること出来ずにいた。
どこから次の熱を効率よく得ればいいのか分からずにいたのだ。
作品は好きなんだよなあ。
どれもいい作品だと思うんだよなあ。
立派な作品はできる。
ところが、すぐれた作品イコール芸術ではない。
“芸術”とはつまるところ作家や作品と社会との接点、あるいはかかわり方をさす言葉なのだと思う。
つまり芸術とは、作るものではなく成立させるものなのだ。
100人の人間がいて、
その作品を素晴らしい作品だ。と叫ぶ人がもし一人もいなかったら、
これはやっぱり芸術ではなくただの物体でしかないのだろう。
また逆に100人全員がいやー、素晴らしい芸術だ、
とほめたたえるようなものもまた逆に芸術としてこれは非常に胡散臭い。
それはとても困難で、
デリケートなバランスの上にのっとったことなのだ。
そんなことを改めて考えた。