移動である。
長距離移動で車の中で待ちぼうけ、おまけに雨なので、十分に外に出られず、チャイは爆発寸前。うるさ〜い!
なのでとりあえず、ひと泳ぎさせて。
ストレス発散。
伊勢神宮には離れた別宮がいくつかあって、鳥羽に近い伊雑の宮が有名だが、ここは、滝原の宮。水が清く深い山中にある。どの木もあまりに大きいのに驚く。巨人の森だ。
虹も出た雨上がり。日が暮れる。光が美しい。
夕飯は毎度のことながら、おはらい町、すし久のてこねずし。
カツオの漬けがのっかっていて、伊勢観光客の定番なんだけど、老舗ならでは、ここの味付けはやっぱりおいしいと思う。
夜明け前にホテルをチェックアウト。
外宮の駐車場でしばしそらが白むのを待つ。いつものパターンだけど、この時間がまたいいのだ。
朝もやの向こうから砂利を踏む音。
何十メートルも高い木々の梢の先に、色彩が徐々に降り始める。
前日の雨のせいで、いつもにもまして空気はとびきり澄んでいた。
しっとりとした湿度が森を包む。伊勢の森の最も美しい時間。
内宮の一番奥、天照大御神の本殿の前でカメラを構えた初老の男性がいた。石段の前に丁度幾筋もの光が差し始めたころ。
天の岩戸が開くときってこんな感じの光だったんだろうな。
僕も邪魔にならないようにフレームで切り取ってシャッターを押す。
おじさんにちょっと話しかけてみた。
「ほんまにきれいですねえ。」
「ほんまになあ。ちょうどおおけなスギが倒れたんで、こないに明るう光がはいるんや。こんなん初めてなんやで。伊勢湾台風の時以来やで。」
「え?倒れたんですか?いつ?」
「この前の台風や。18号。そらあえらい被害やったんや。石段のふもとにその切り株がある。けどな、本殿のほうには倒れんかった。やっぱり神さんが避けさせたんやなあ。て言うてんねん。神さんおるねんなあ。」
なるほど、遷宮を間近に控えた大切な時期に、
もし直撃を受けていたなら、
その神威もやや陰るというもの。
しかし神威は健在だったということなのだろう。
改めてその場所に行ってみると、
広い範囲に周囲の腐葉土とは違う色の砂が敷かれている。
その上にまた落ち葉が散っていて、
ちょっと見ただけでは、分からない。
半月ほど前までは、確かにここに巨大な木が屹立していたのだ。
カモフラージュされた切り株から、
30メートル以上離れた場所には、別の杉の巨木が立っているのだが、その片側の枝がすっかりとそげ落ちている。
どうやらこの木に正面から一旦ぶつかって、
枝を薙ぎ払いながら、それは倒れたらしい。
きっと嵐にまぎれてなお森に轟音が響きわたったに違いない。
翌日は伊勢神宮は参拝は閉鎖されたと聞く。
それにしても、たった10日ほど前のことなのに、ぶつかったほうの立ち木の傷跡以外にはまるでそんな天災の跡は見られない。
切り株しかり、倒れた時の地面のえぐれた跡、それを運んだであろう重機のキャタピラーの痕跡などなど。
おじさんに聞いた話がなければ、そんなことがあったとは思えないほどの迅速で完璧な修復ぶりだ。
一夜にして、一本の巨木が消えた!
あるいはそんな感じだったのかも。
これぞ伊勢の森の魔法だ。
もし、さっきのおじさんに
「あれはな、あの白装束の男衆さんたちが夜のうちにこっそり術をつかうねん。」
と、さらりと言われたら、
「ほんまですか!?それ!?」
と、僕はマジで効き返してたと思う。
やっぱりここは、そういう気になる不思議な場所なのだ。
五十鈴川で、今一度手を清め、すっかり満足して、
再び駐車場に向けて橋を渡るころ、
日が昇り、ようやく逆方向に歩く人の群れが橋をこちらへと渡り始めていた。
今日は日曜日。あの本殿の前の杉の巨木の傍らを、沢山の参拝客が通り過ぎて、石段を登り、白い垂れ幕の前で柏手を打つのだろう。
杉の木が本当にそこにあったことや、
白装束の男衆さんたちがこっそりと施した術に感づく人はどれだけいることか。
思い立ってのお伊勢さん。
この1年のおかげまいりと、プラスアルファの願掛け、
個展と像刻本ヴォメル。
両方、無事やり遂げられますよう。
僕も思いを込めて柏手を2回打った。
不思議な術に実は内心ちょっとだけ期待している
ずうずうしい僕の本心をアマテラスはきっとお見通しだ。