2008年09月28日

北海道記 その4 ふごっぺふごっぺの1日

hokkaido 0809 (2).JPG hokkaido 0809 (3).JPG
hokkaido 0809 (5).JPG


この不思議な線刻画、ツバサをもつひと。
海辺の洞窟に無数に刻まれた不可思議な記号の数々。
これはアルタミラやラスコーやタッシナジェールのものではない。
これは北海道にある。

小樽から余市に向かう途中、海沿いを走る国道沿いに
フゴッペ洞窟壁画、という控えめな看板が立っている。

僕は今回どうしてもこれが見たかった。

これが描かれたのは、実はそれほど昔ではない、と言われている。
約1500年から1300年前ではないかとされている。

僕はそれを現地で知って、
え!?とおもった。歴史の教科書的な認識なら、古墳時代?
縄文時代の間違いではないか?4,5000年前あたりの。
と思った。
1300年前と言えば、ヤマトでは埴輪がせっせと作られ、大陸では鋳物の精緻な仏像がこしらえられていた。

角の生えた人、翼をもつ人、犬、鹿、男、女、船、魚。
そうしたモティーフを並べてみると、
それはまったく狩猟時代のそれであり
あまりにシャーマニスティックだ。
日本で、このたぐいの原始的な先刻画は、御隣小樽の手宮洞窟のそれと、たった2か所にしか残されていない。
唯一で、類似のものは全く発見されていないという。
風化によって残っていないのか、はたまた、本当にここにだけ住んでいたまったく別系統の北方系民族のそれなのか。

改めて北海道の年表を見てみると、
今から1万年前から約2000年前までが縄文時代、
これは本州のそれとおなじなんだけど、
それに続く時代が、弥生時代ではなく
続縄文時代とされている、重ねて、オホーツク文化というものが影響して共存しているらしい。

なるほど、そうだったのか。

ネイティブアメリカンのそれや、ロシアのアムール文化の絵にも似てる。

洞窟は現在表面保護のため、ガラスの壁で厳重に覆われており、
実際に僕らが見ることができるのは、ガラス越しのシャーマンたちなんだけど、
それでも、洞窟の1番奥で、暗いスポットライトを斜めに当てられて
浮き出したその群像を目の当たりにしたときにはぞっとした。

なんだこりゃ!?
なんでこんなものがここに残ってんの?

正直そう思った。

祈りの場所だったことには違いがない。
おそらく定住でなく、季節によって移動しながら狩りをして暮らしていた人々の、聖なる場所だったのだろう。
と説明にはある。

お客さんは僕のほかに数人、その人たちが帰った後も、
僕がひとりで熱心に見ていると、
学芸員でもある館長さんがやってきて、熱心な説明をしてくれた。
個人レクチュアである。

「このわずかに残る赤い塗料はなんですか?」

「よく気がつきましたね!これは土ですね。羊蹄山の火山灰です。」

「酸化鉄、オークルですね、どこでその土を得たんでしょうか?」

「この近くの高台に環状列石があります、西崎山ストーンサークルです。
そのあたりの土はそういえば赤いですよ。はい。
今からお連れしましょうか?」

「え、いやいやいいです。あとで自分でたずねてみます。」

「そうですか、それでこの出土した獣骨ですがね、、、。」

延々と熱心な説明が続く。
本当にここが好きなんだなあ。
そしてまた、

「近くに環状列石が残されています。お連れしましょうか?」

2度目のお誘いである。
よっぽど連れて行きたい場所らしい。

「はい、そうしたらお願いしていいですか?」

「すぐに車を回してきましょう!」

うれしそうだ。
数分で西崎山に着く。
見晴らしの良い高台にあるのが

hokkaido 0809 (9)a.jpg

環状列石群である。
小樽からこのあたりにかけては、
どうやら列石の宝庫らしい。

そしてまたまた館長のレクチュア開始。

「実はここにもいわくがあります。」

得意げだ。来た来た!
なるほど、ここでないと言えないことがあるんだな。

「ここから先ほどのフゴッペ洞窟のある場所が見えます。あれです。
見えますか?」

「はい、ああ、あれですね。」

「そうです、洞窟のある小山から、さらに先に目をやっていただくと、あの面白い形をした岬が見えますか?岬はシリパ岬といいます。あそこは聖地ですな。」

「ああなるほど、はい、ここからは一直線ですね。」

「そのとおりです。夏至の日にここに立つと、洞窟を通ってあの岬にピッタリ狂い無く夕日が落ちるんですね!!夏至の日です。」

ほほう、やっぱりそういう場所なんですね。
なるほど、としばしその方向を二人で眺めた。
ふと見ると、岬のさらに先に、ぴょこんと海上に細長く垂直に突き出た
特徴的な岩が見える。
ろうそく岩と呼ばれる奇岩だ。

「先生、その先にろうそく岩がありますが、あれももしや夏至線上に位置していますか。」

「は!?え!?なんです。?」

「ですからほら、ね、ちょうど並んでるでしょ?」

「ああ!!!!ありゃ!ほんとだ!」

目に見えてはっとした顔で沖を見る館長先生。
もしや新説にたどり着いたか?先生、
それをおもしろげに観察する僕。

おや?なんか僕いいことしたかな?こりゃ。

ちょっといい気分で僕は帰りも送ってもらった。
もちろん赤い土の顔料も採集させてもらった。
おそらく、熱を加えて赤さを増していると思う。
かえって実験をしてみよう。
館長さんには、丁寧にお礼を言って別れた。

hokkaido 0809 (13).JPG


ろうそく岩。この先端に夕日が沈む瞬間をそう呼ぶらしい。
が、1500年前、まさかこれをろうそくにたとえた人はおるまい。
むしろ狩猟放浪生活の人々は、繁殖の象徴で、男根と見たんじゃないかなあ。
まあね分かんないけど。

そのあとは、そのまま積丹半島半周。
次々現れる景色、そそり立つ奇岩、運転していても退屈しない絶景続き。
hokkaido 0809 (49)aaa.jpg hokkaido 0809 (56)aaa.jpg
hokkaido 0809 (88).JPG
P9210183.JPG

信じられない色と形の連続。
なるほど、神様はあちこちにいるわねこりゃ。
鳥居もたくさん建ってるもの。
もちろん、僕らには見慣れた鳥居の形が
この北の地に伝わるずっと以前から、
それぞれの場所は祭られ、斉かれていたに違いないんだけど、
そのアニミスティックな祈りの形はきっと、
なじみのある、しめ縄や鳥居とは全く別の姿かたちをしていたんだろうなあ。
フゴッペに描かれたシャーマンの姿が、僕らの目に異様に映るように。
ここにはヤマトとは全く別の歴史があったんだな。

目標達成のいい1日だったなあ。













posted by 前川秀樹 at 23:42| Comment(4) | LOLO CALO HARMATAN | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

北海道記 その3 アルテピアッツァ美唄


P9200182.JPG


札幌と旭川の間に美唄(びばい)という町がある。
かつて炭鉱の町として栄え、
当時は30000人を超える人々がこの美唄地区に暮らしていた。

多くの炭鉱町の例にもれず、
石炭の需要の減少とともに炭鉱は閉鎖され、
町は急激に痩せて行った。

現在では露天掘りの石炭採掘がわずかに行われるばかりだ。
無論今も人々は暮らしている。

周囲の密集して建てられていた炭鉱住宅や
様々な施設は取り壊されたが
学校の建物は残った。

旧校舎の一部分と体育館を中心に起伏のある広い7万平米の土地は
今、彫刻公園として親しまれている。
そのすべてをプロデュースしたのは、
イタリア在住の彫刻家、安田侃。
札幌駅コンコースの巨大な白大理石の彫刻「妙夢」
が有名だ。

ひろいひろい芝生と木立を眺めながらのカフェと、
ワークショップが行われるアトリエが昨年新たにオープンした。

安田侃の彫刻を眺めながら、一日がゆっくり過ぎていく。

P9200157aaa.jpg



時間が止まったような、と形容したくなる特別な場所がまれにある。
それは無論ほめ言葉なんだけど、
ここはその中でも特にそうした気分にさせられる。
ばかりか、ごみ一つ落ちていない清められた芝生と
木立の中にただたたずむだけで、
森の中の聖域ような清浄で神妙な気持ちにもなる。

実際の管理を行っているのは、町とNPO法人、アルテピアッツァ美唄
いろいろと話を聞くことができた。

炭坑での大規模な事故の悲劇、
たくさんの人々が何度も巻き込まれた。
炭坑内での火災においては、
穴に大量の水を注入するのがその一番の処置なのだが、
それはその穴の廃棄を意味する。
鎮火後も穴を存続させるには、いち早く炭坑の出入口を閉じ、
空気の流れをを遮断するしかない。
いずれの方法もそれには、炭鉱夫の全員避難後が大前提だ。
が、時には“全員”ではなかったことがあった。
閉じた入口までたどり着いて亡くなった方もいたそうだ。
あと板一枚で空気を胸いっぱい吸い込むことができた。
生きられた。
どれほどの熱さだったか、どれほどの絶望だったか。
日本人ばかりでなく韓国からの労働者もそこにはたくさん含まれていた。

他にも肺を痛めた炭鉱夫たち、結核療養病棟の話も聞いた。

悲惨な話ばかりではない。
案内してくださったNさんの話によると、
古い校舎の教室の壁に今も貼られたままの、自分の名札を見つけて
うれしくて涙を流した女性の話。
その方も今は母親として、子供を連れてここを訪れた。

祭りの話。

30000人がここにひしめいていた。
ほんの数10年前、ここはさまざまな思いや、喜びや悲しみ。
人々のエネルギーに満ち溢れていた。

今、その周囲のたたずまいからその当時の面影をしのぶことは難しが、
つまり現在この公園は、
安田侃というたぐいまれなる異能の作家と
町が死んでゆく様をその目で見てきた町の人々とのコラボレーションで作られまた、進行形で整備がすすむ、鎮魂の場所なのだ。
土地に込められたさまざまな物語の上に、今この石碑は静かに置かれている。

P9200159aaa.jpg P9200168aaa.jpg P9200172aaa.jpg

そんなことに思いをはせて改めてこの場所の空気を吸い込んでみると
深い所に吸い込んだ澄んだ空気が不意にふれる。
ああ、ごみ一つ、落書き一つ、あってはならない場所なのだな、と感じる。
 
とりもなおさず、そのことは、
清められた状態を保つ努力を惜しまない人の手が
現在進行形で存在していることを示唆している。

芸術作品は、確かに一人の芸術家の思いを形にしたものには違いない。
もっと言えば、それは研磨された大理石にすぎない。
ただの“もの”だ。
しかし、この場所で今、無機質な石たちは
特別な役割を得、
たくさんの人々の過ぎ去った思いの上に静かに立ち、
風景に溶け込みやがて一体となってゆく。

そういう芸術の在り方があるということに
改めて新鮮な驚きを覚えた。

校舎の1階は今も幼稚園として使用されており、
カフェや体育館で時折行われる、朗読会やコンサートには
地元の人たちの心のこもった手料理などが並ぶことがあるという。
ここに残った人々の、また戻ってきた人々と新たに移り住んだ人々の
ささやかなつながりが生まれ始めている。

北海道ならでは、なのか、炭鉱町のその歴史ゆえか、
はたまた、その場所に住む人々の純粋な願いゆえか。

美味しいコーヒーをいただき、職員、Nさんの愛情あふれる案内ガイドに耳を傾けながら、
こんな場所が近くにあったらなあ、、、。
とこころからうらやましく思えた。




posted by 前川秀樹 at 21:23| Comment(0) | LOLO CALO HARMATAN | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。